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先週、バスジャックの第一報を羽田空港で聞きつけた。ゴールデン・ウィークでごった返す空港ターミナルで、搭乗を待つロビー前のテレビに群がる人々がデーゲームのプロ野球で盛り上がっているのかと覗いて、疾走するバスの画面に驚いた。
さっきまで居た勤務先に引き返すか迷ったが、情報トレースを任せ、そのまま当初の目的地へと向かった。 出先でのスケジュールがあまりタイトでなかったこともあり、深夜もテレビ・ラジオをつけっぱなしにし、解決へのシナリオやタイムリミットを推測しつつ、国営放送と民放各社の報道の温度差を見比べていた。 気になったのは、警察の突入に向け、報道のカメラがあまりにも至近距離から今後起こるであろう事実を記録していることだ。手口をすべて見せることで、再発の際により犯人が巧妙になりはしないか心配だ。 そして、いつものようにマスコミによる取材攻勢が始まった。 小学校に入学したての人質とその両親、通い始めたばかりの学校の担任、校長先生、加害者の祖父母、さらには病院関係者、加害者の小学校からの同級生などなど。 傍観する私達は、自らの周囲を見回し、事件の再発を警戒することを確認しあうのだが、全員が事件の利害関係者であり、当事者であるとの自覚は少ない。 国民全員が第三者として事件の検証を行い、「十七才」というレッテルをはった特殊ケースとして葬り去るのだろうか。 こうした事件の防止対策として、学校教育の見直しなどへの期待が大きいようだ。ゆとり教育と言いつつ、大型連休の狭間の土曜日が公立学校の登校日であった。 矛盾する社会システムはこんなところにある。
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